スペインの鬼才ペドロ・アルモドバルが製作し、2015年に開催された第72回ヴェネチア国際映画祭にて監督賞となる〈銀獅子賞〉を受賞。本賞では、北野武監督(『座頭市』)やキム・ギドク監督(『うつせみ』)、ポール・トーマス・アンダーソン監督(『ザ・マスター』)など各国を代表する監督たちが過去に受賞している。そして昨年、アルゼンチンの俊英パブロ・トラペロ監督は『エル・クラン』で受賞となり、名だたる監督に仲間入りを果たした。
ヴェネチアの銀獅子賞をはじめ、第10回アルゼンチンアカデミー賞では最多5部門(撮影・新人男優・美術・衣装・録音)を受賞する快挙を遂げ、本国では大ヒット映画『人生スイッチ』をオープニング動員記録で抜き、300万人という驚異的な動員数で社会現象化。その勢いは止まず、第30回ゴヤ賞のイベロ・アメリカ映画賞、第40回トロント国際映画祭Platform Prize特別賞、第32回マイアミ国際映画祭観客賞を受賞し各国の映画祭で賛辞をうけた。さらには米・辛口批評家サイトRotten Tomatoesでも90%の満足度となった超話題作!
裕福で、周囲からも慕われる父、母、息子3人、娘2人の素敵な家族“プッチオ家”。幸せな暮らしをしている彼らのまわりで、ある日を境に、金持ちの家を狙った高額の身代金事件が多発。近所では不安が募る一方、変わらない生活を送るプッチオ家。彼らの裏には一体、何があるのか? 1983年にアルゼンチンで実際に起き、ちょっと裕福な普通の“家族”が全世界を震撼させた事件を完全映画化!!この映画のとんでもない結末にあなたの開いた口がふさがらない!!

 1980年代アルゼンチン。史上最悪な独裁政治から7年以上が経ち、徐々に民主政治を取り戻していた時代。裕福で、近所からも慕われるプッチオ家は、父アルキメデス(ギレルモ・フランセーヤ)を筆頭に妻、息子3人、娘2人で幸せに暮らしていた。そんななか、マルビナス戦争(フォークランド紛争)の結果、政府が転覆。政府の情報管理官として働いていたアルキメデスは無職になってしまう。
 ある日、長男アレハンドロ(ピーター・ランサーニ)は、同じラグビーチームの友人に車で家まで送ってもらっていた。そこへ突然、見知らぬ車が割り込んでくる。その車から出てきた銃を持った男たちは二人の頭に布を被せ、さらっていった。友人は車のトランクへ、アレハンドロは助手席へ放り込まれた。なぜか運転席の男は、乱暴されたアレハンドロを気遣う。そこで覆面を取ったのは、父アルキメデスだった―
 翌日、アレハンドロが練習場へ到着すると、チームメイトが誘拐されたことが既に広まっていたが、誰一人アレハンドロを疑っている様子はない。皆、姿を消した友人を心配しており、複雑な心境になる。犯人が捕まらず街に不安な空気が流れるなか、プッチオ家はいつもと変わらない生活をしていた。夕飯の時間になると、アルキメデスは妻エピファニア(リリー・ポポヴィッチ)の作った料理を、キッチンではなく、2階の奥にある鍵のかかった部屋へと運んでいく。なんとその部屋は、プッチオ家に特設された〈監禁部屋〉だったのだ。
 アルキメデスは人質に対し、身代金を用意させるため、家族あてに手紙を書くよう指示をする。その後、多額の身代金受け取りに成功したアルキメデスは、人質を監禁部屋から車のトランクへ運び、アレハンドロが見守るなかプッチオ家をあとにする。しかし翌日、アレハンドロはチームメイトから衝撃の事実を告げられる。なんと、人質になった友人は殺害されていたのだ。その夜アルキメデスに理由を聞くと、人質から逆に脅され、家族を守るため仕方なく殺害したことを打ち明けられた。さらに、「私を信じてほしい」と次の“仕事”に向け、協力を仰ぐのだった。
 数日後。アレハンドロが経営するサーフショップの開店祝いで、町の人々やチームメイトに祝福されるプッチオ家。その姿は依然と変わることなく仲睦まじく、誰もが羨む光景だった。家族の秘密を知るものは、未だ誰一人いなかったのだ。
 ある日、アレハンドロが店番をしているときに若い女モニカ(ステファニア・コエッセル)がやってきた。モニカとアレハンドロは互いに惹かれあい、自然と恋人関係になった。店の経営も恋人との関係も順調なアレハンドロは普通の生活を望むようになり、次の“仕事”から抜けることを父アルキメデスに伝えた。そこから徐々に、プッチオ家の歯車が狂い始める―
1955年2月14日、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。アルフォンソ・キュアロン監督の『ルドandクルシ』(08)やアカデミー賞外国語映画賞を受賞したフアン・ホセ・カンパネラ監督の『瞳の奥の秘密』(09)など評判の高い映画に出演して以来、俳優として観客と批評家を魅了し続けている。彼は、アナ・カッツ監督の『Los Marziano』(11)やエドゥアルド・コルテス監督の『¡Atraco!』(12)、マルコス・カルネバーレ監督の『Corazón de León』(13)、ダニエル・ブルマン監督の『El Misterio de la Felicidad』(14)などに出演。その他、様々な監督と働いているTVドラマではコメディ俳優としても有名で、絶え間ない活躍によりアルゼンチンのテレビ界で最も権威のあるマルティン・フィエロ賞を8回受賞している。
1990年8月24日、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。2012年、テレビシリーズ「La Dueña」で脚光を浴びた。2013年、彼は舞台“Camila, el musical” に主演し、高い評価を得てと商業的な成功を収めた。その年の終わりに彼は、テレフェとフォックス・インターナショナル・ネットワークのために製作されたティーンドラマシリーズ「Aliados」に主演した。 2014年、ブロードウェイのヒットミュージカル『ネクスト・トゥ・ノーマル』のアルゼンチン版でヘンリー役を演じた。最近ではピーター・シェーファーの伝説的な舞台『エクウス』をプロデュースし、出演もしている。『エル・クラン』で映画デビューを果たし第10回アルゼンチンアカデミー賞新人賞を受賞する快挙を遂げる。

2015年、『瞳の奥の秘密』フアン・ホセ・カンパネラ監督が製作を務めたTVシリーズ「Entre caníbales」出演し注目を浴び、同年、『エル・クラン』出演を果たす。その他、ロトステイン兄弟監督作のホラー映画『Liebre 105』(13)と『Terror5』(16)に出演している。
1994年5月22日生まれ。ブエノスアイレスにある「Teatro Timbre4」で演劇を学び、2011~13年のTVドラマ「Peter Punk」で俳優デビュー。その後、「Señales del fin del mundo」(13)「Esperanza mía」(15)に出演。2015年、『エル・クラン』でスクリーンデビューとなった。今後の公開待機作として『Inseparables』(16)がある。また、ミュージシャンとしても活動している。
『Sin retorno』(10)や『エル・クラン』が代表作。自身の女優経験を生かしTVシリーズのクライムドラマ「Epitafios」で主演ジュリオ・チャベスの演技指導を長きにわたって行った。若くして劇場ディレクターとしてデビューし長年活躍していた。

1992年ブエノスアイレス生まれ。2014~15年にEl Duende劇場で行われたエミリアーノ・デルチ演出の舞台「Tute Cabrero」では俳優とプロデューサーの役割を果たした。そして2015年に『エル・クラン』出演後は、ロトステイン兄弟監督作『Terror 5』(16)や、ラリ・エスポシートとマルティン・プロヴァンスキーと共演したアリエル・ウィノグラド監督作『Permitidos』(16)などが代表作である。
1998年ブエノスアイレス生まれ。幼い頃から様々な演劇ワークショップに参加し、2009年にホームコメディのTVシリーズ「Nini」に出演。翌年、『人生スイッチ』に出演したレオナルド・スバラーリャ主演『Sin retorno』でスクリーンデビュー。
映画、テレビ、演劇と幅広く活動している女優。2015年、フランスのクレルモンフェラン短編映画祭で上映された『Las Arácnidas』に出演しデビュー。同年、『エル・クラン』が初長編作品への出演となった。その他に、「El experimento de Próspero」「El Ocaso del Vampiro」「Dos Casas」「Los Paraguas son más caros cuando llueve」など、いくつかの舞台にも出演している。

1971年、アルゼンチン・サンフスト生まれ。初長編作品『Mundo Grua』(99)が、ヴェネチア国際映画祭で批評家賞を受賞し、2002年に製作会社Matanza Cineを設立。その会社では自身の監督作品や仲間の作品を製作している。 長編第2作目となる『El Bonaerese』(02)はカンヌ国際映画祭でプレミア上映され、2004年には『Familia Rodante』がヴェネチアで、2006年には『Nacido y Criado』がトロント国際映画祭で上映された。2008年に『檻の中』がカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、2010年には『ハゲ鷹と女医』を、2012年には『ホワイト・エレファント』をある視点部門に出品している。その他、パブロはヴェネチア国際映画祭やサン・セバスチャン国際映画祭、ロカルノ国際映画祭やその他の主要な映画祭に審査員としても参加している。2014年にはカンヌ国際映画祭のある視点部門の審査員長を務めた。2015年にはフランスの芸術文化勲章シュヴァリエを、南アメリカの監督としては初めて受賞した。最新作である本作『エル・クラン』(15)は、ヴェネチア国際映画祭で最優秀監督賞にあたる銀獅子賞を受賞した。ちなみに、ベニチオ・デル・トロやギャスパー・ノエらが参加したキューバを舞台にしたオムニバス『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(12)では、エミール・クストリッツァ出演パートの監督も務めた。

1949年9月25日、スペイン、ラ・マンチャ生まれ。1985年、弟のアグスティンと共に製作会社エル・デセオを設立。以来、自身の監督作品すべてを弟と製作している。1987年、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』でヴェネチア国際映画祭の脚本賞を受賞し、世界的に名を広めた。その後、『オール・アバウト・マイ・マザー』(98)でアカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞。『トーク・トゥ・ハー』(02)では、アカデミー賞脚本賞を受賞、監督賞にノミネートされ、名匠と賞賛される。また、『ボルベール 〈帰郷〉』(06)では、カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞。その他の主な監督作は、『バッド・エデュケーション』(04)、『抱擁のかけら』(09)、『アイム・ソー・エキサイテッド!』(13)など。製作としては、ダミアン・ジフロン監督『人生スイッチ』(14)が本国アルゼンチンで大ヒットとなった。
1985年、兄のペドロと共に製作会社エル・デセオを設立。ペドロの全監督作品のほか、アレックス・デ・ラ・イグレシア監督の『ハイル・ミュタンテ!/電撃××作戦』(93)、ギレルモ・デル・トロ監督の『デビルズ・バックボーン』(01)、イザベル・コヘット監督の『死ぬまでにしたい10のこと』(03)、『あなたになら言える秘密のこと』(05)などの製作を手掛けている。

1974年、ブエノスアイレス生まれ。幅広い映画プロジェクトに携わるカメラ部門のアシスタントとして仕事を始めた。数年経ち撮影監督になったのち、独立系映画のコミュニティーに深く根ざした活動を続ける。一方で、ドキュメンタリー映画やテレビシリーズ、ミュージック・ビデオ製作の道も模索した。彼が参加したいくつかの作品はカンヌ国際映画祭やサン・セバスチャン国際映画祭、トロント国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭で高い評価を得ている。また、彼自身いくつかの賞にノミネートもされ、2006年にADF賞を『Crónica de Una Fuga』で受賞し、2012年には『Los Salvajes』でBAFICI賞最優秀撮影賞を受賞した(2012年Camerimageにも選ばれている)。2014年には『ザ・タイガー 救世主伝説』でFenis賞の最優秀撮影賞を、『Dias de Pesca』では2014年Silver Condor賞の最優秀撮影賞を受賞した。本作『エル・クラン』で、『ハゲ鷹と女医』の成功を共有したパブロ・トラペロと再び組んだ。
メキシコ生まれ、アルゼンチン育ち。ブエノスアイレスにあるCINE大学で映画を学んだ。有名なアルゼンチンの編集者ミゲル・ペレスのアシスタントとして数作品携わった後、ペノービはPulso Postproducciónを共同創設し、高い評価を得たファビアン・ビーリンスキー監督『El aura』がペノービにとって初長編映画となった。その他に、リカルド・カリン&Martín Hodara監督『La señal』(07)やセバスチャン・ピヴォット監督『MAXヒート』(08)、ディエゴ・カプラン監督『Igualita a mí』(10)、セルジオ・サンチェス・スレアス監督『Tequila』(11)、ホセ・ルイス・ガルシア監督『The Girl From The South』(12)、アンドレス・バイス監督『Roa』(2013)など数々の作品に携わっている。


Q:プッチオ家の事件が起きた当時のアルゼンチンについて、どのようなことが記憶に残っていていますか?それは、どのように本作に影響しましたか。
事件のニュースを最初に聞いたとき私は13か14歳でした。プッチオ家はごく普通の家族に見えました。近所の人たちですら、彼らが酷い犯罪の主犯格とは信じられなかったほど、彼らはどこにでもいる普通の家族だったのです。それから何年も時が流れ、プッチオ家の事件に基づく映画を作ることを考え始めたのは、2007年に『檻の中』の準備をしている最中でした。しかし、当時の私はまだこの家族の表面的な部分しか知りませんでした。あまり情報は残っておらず、特にアルキメデスとその“時代”との関連性は知られていませんでした。調査する中で、この家族のストーリーが実は世の中に完全に通じるストーリーであることに気付きはじめました。
そして、アルゼンチンの歴史の知られざる時代を語ることができるとも思いました。家族を巻き込んだプッチオ家ほど強烈な例は他にありませんが、このようなケースはいくつかありました。また、政権の移り変わりも当時を象徴しており、この移り変わりがプッチオ家のストーリーに終止符を打ったのです。ゆえに、映画の中に捜査を担う役は登場しません。なぜならこの一家を捕まえようとした具体的な人物はいなかったからです。プッチオ家や彼らのような人々の時代を終わらせたのは政治的な変化でした。プッチオ家の事件は、病んだ社会の象徴です。一家について理解を深め、彼らの私的な部分を掘り下げていくうちに、アルゼンチンの歴史のなかに生まれたこの“時代”を証言する映画になると気付きました。
Q:収集した情報の中からプッチオ家の要素を歪めずに、インパクトある劇映画を作るのは苦労しましたか?
実在する人物が登場し、事実に基づいた映画を作るというのは初めてだったので、これは大きな挑戦であり責任重大でした。被害者家族にとっては、自分たちの名前が映画に登場するということになりますので。彼らの実体験に基づいた話をどう扱えばよいかというのが課題でした。映画を観る大半の観客の目にはフィクションのように映るでしょうが、これは実際に起きた出来事なのです。被害者家族と話せたのはとても役立ちました。事件の裁判官や、事件を追いかけていたジャーナリストたちとも会いました。事件の病的な側面についてアドバイスをくれる心理学者とも話しました。サン・イシドロ地区に住んでいた人々のもとへも訪ねました。人質が監禁されているプッチオ家に夕食に招かれた人たちもいて、詳しい情報を話してくれたのです。
ほかにも、アレハンドロとラグビーチームで一緒だったチームメイトたちからは彼の人物像を教えてもらいました。現実の世界でも映画の中でも、彼らは最後までアレハンドロが罪を犯したことを信じられずにいました。今でも彼らは心のどこかであれはひどい間違いだったんじゃないかと思っているんです。
また、アルキメデスとアレハンドロとの間で交わされた会話の記録はもちろんありませんでしたが、複数の手紙があったので彼らがどんな会話を交わしたのかは想像できました。今のように何でも動画に残す文化がない80年代の出来事でしたから、ビデオは残っていませんでした。しかし写真は多く残っていて、脚本にする際はもちろん、俳優たちにとっても役に立ちました。彼らがどのように振る舞い、アルキメデスがどのように息子を見ていたか研究できました。映画化のプロセスは大変でしたが、彼らの人生を再現するにあたっては、手に入る資料にできる限り忠実であろうとしました。
Q:プッチオ家の関係はスクリーン上では恐ろしいくらい普通ですね。アルキメデスとアレハンドロのやり取りは突出して強烈に映し出されています。片方が一家の怪物だとしたら、もう片方は明らかにより人間的で、矛盾や良心を内包しています。
アルゼンチンにはこんな言習わしがあります。「太陽を手で隠すことはできない」。現実があまりにも激しいと、何事もなかったかのように過ごすのはとても難しいということです。『エル・クラン』は、アルゼンチン人であろうとなかろうと、一般的な観客がある一定の政治的寓話を体感することができる映画になっています。社会が問題を解決しないと、その問題はどこか別の場所で起こり得るのです。観客は30年前のアルゼンチンや今日のアルゼンチンとは関係なく、この映画の中で自分たちに通じるリアリティに直面するでしょう。時代の背景や現象の間に存在した何かがこの事件を引き起こし、不幸なことに似たようなことが様々な社会で繰り返されているのです。
Q:本作では、劇中で起きる事に対するコントラストの役割として音楽が重要な役割を果たしています。ある時には音楽が映画にブラックコメディの印象を加えたりもします。なぜ、このようなクラシックなロック曲を選曲したのでしょうか?
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルやキンクス以外は、ほとんどが当時の曲です。それら全てが軍事政権下では禁止されていた曲でした。興味深いことに、フォークランド時代からイギリスの音楽は禁止されていました。しかし、中流階級家庭ではスペイン語の音楽を聞くことはなく、英語の曲を聞くことが流行っていたのです。また、時代を表現するために選んだ曲もあります。例えば、1985年にデイヴィッド・リー・ロスは大人気でした。そして1982年頃、アルゼンチンではセル・ヒランが有名でした。アルゼンチンのバンドVirusはエラ・フィッツジェラルドやクリーデンス、キンクスと並んで1983年を代表するバンドでした。キンクスの楽曲「サニー・アフタヌーン」(66)は歌詞の皮肉さが特別なんです。
Q:まだ存命するプッチオ家のメンバーについて、何が言えますか?また、彼らは映画製作のプロセスに参加しましたか?
僕らはエピファニア(母)に接触を試みたけど、彼女は僕らに話したがりませんでした。マギラ(次男)とアレハンドロの友達を経由して、マギラにもスカイプで話を聞こうとしましたが実現しませんでした。しかし、アルキメデスに関して面白いことが起きました。2012年に本作の製作が発表された時、僕は他の企画に取り掛かっていました。その映画が公開されると、アルキメデスからメディアを介して「トラペロに会って真実を話したい」と言ってきたのです。しかし、僕がこの映画のためにアルゼンチンに戻ってきた時には、彼はもう亡くなっていました。もし僕が彼と話せていたなら、何を語ったのか想像がつきます。彼には犯罪に関与したという罪の意識はありませんでした。むしろ彼は犠牲者でした。でも僕が知りたかったのは、なぜ彼が家族に対してあのようなことができたのか?ということでした。なぜなら、映画を見てもわかる通り、そして僕らがリサーチしていた時ですら感じたことですが、彼は家族をとても深く深く深く愛していたのです。彼が犯したことは全て家族のためでした。ただ、映画でもわかる通り、家族は彼の意見に感化されてしまうのです。
Sunny Aftrnoo
The Kinks
Just A Gigolo
David Lee Roth
Encuentro Con El Diablo
Séru Girán
Into Each Life Some Rain Must Fall
The Ink Spots
Tombstone Shadow
Creedence Clearwater Revival
Wadu-Wadu
Virus
So Far S’Good
Werner Tautz
Hung Up
Cut One & Clark Nikolas
HIT THE BUTTON
Giles Edward Palmer / Mick Lister
We Could Have Had It All
Donnie Demers & Kenny Werner
Every Little Bit Vox
Ian Curnow / Jackie James
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プッチオ家の勝手口のドアが勢いよく乱暴に開き、しゃがれた声が静寂の夜に響き渡った。1985年、8月23日金曜日のサン・イシドロ。「壁を背にして立て!立つんだ!」革のジャケットを着てブロンドの髪を腰まで伸ばした男が叫ぶ。その手には短機関銃をもっている。ラグビーのナショナルチーム“ロス・プーマス”の代表選手を経て、地元ラグビーチーム “カシ”の選手を務めていたアレハンドロ・プッチオ(当時26歳)は、抵抗もせず、ただ恋人モニカの手を握りしめていた。ふたりは震えている。ブロンドのストレートヘアでベビーフェイスの幼稚園教諭モニカ・ソビック(当時21歳)は、「一体どうなっているの!?」と叫んだ。
数秒後、サン・イシドロのマルティン・イ・オマール通りと25・デ・マイヨ通りの角にあるコロニアル様式の家の中庭で、複数の男たちが不可解な命令を叫んでいた。最初に突入してきた男が捜索令状をかざし、理由を聞く間も与えずアレハンドロに手錠を掛けた。「彼を連れて行かないで!」とモニカが泣き叫ぶ。しかし、アレハンドロはすでに中庭でうつ伏で横たわり、泣きながら警官に訴えかけていた。「僕は無実だ。何も知らない!」 モニカはようやく事実を把握した。アレハンドロは涙で顔を濡らし、自分が見ている光景が信じられないという様に頭を振る。白いブラウスに茶色のスカート、そしてブーツを履いた年配の女性が、数名の警察官に支えられながら地下から出てきたのだ。その女性はどうにか立っていた。彼女は泣き笑いを繰り返し、震える声で何度も呟く。「これは現実?私は本当に助かったの?」肌は透けるほど青白く、80歳ぐらいの老婆に見える。ブエノスアイレス州誘拐捜索課職員がモニカに告げる。「ここに、女性が36日間も監禁されていたんだぞ!」
この瞬間、悪夢が終わったのだ。女性実業家ネリダ・ボリーニ・デ・プラド(当時58歳)の救出捜査に携わった警察官は45人。警官たちは彼女をくるんでいたブランケットをはがし、湿ったマットレスから助け起こした。こうして36日間の監禁と苦痛の日々が終わった。12台の車がプッチオの黄色い家を取り囲んだとき、隣人たちが驚いて、何事かと集まって来た。彼らは皆「プッチオさんの家に泥棒が入ったらしい」と言い合った。恐ろしい事件を疑う者はひとりもいなかった。長年そこに住み、誰もが知っている裕福な一家。父親のアルキメデス・プッチオ(当時56歳)は、元公務員、元外交官、そして公認会計士でもある。母親のエピファニア・アンジェレス・カルボ(当時53歳)は、マルチネスの公立高校の会計学教師。娘のシルビア・イネス(当時25歳)は、カトリック系私立学校の美術教師。サン・イシドロ美術学校と別の美術学校も卒業している。長男アレハンドロ・ラファエルは、“街で一番のウィンドサーフィンとスキーの店、ホビー・ウィンド”(住居の真下)のオーナーで、ラグビーのナショナルチーム“プーマス”でプレイしたのち、チーム“カシ”でバックを守るラグビー選手だ。次男マギラ・プッチオ(当時23歳)は、“カシ”の第3ディビジョンの選手で、家族のなかで一番“ゆかいな奴”だ。そして三男のギジェルモもまた熱心なスポーツ選手だった。“優秀な選手だったので、ニュージーランド在留を望まれて”現在ニュージーランドにいる。そして末っ子の娘アドリアナ(当時14歳)は、大好きな母親とメンドーサで休暇を過ごしたばかりだった。この家族が、身代金目的の誘拐の実行犯だとは誰も思わなかった。
警察の調書にサインした証人のフェルナンド&イグナシオ・ファロットは、自分たちが目撃したことを語った。「警察が案内すると、山積みのわらと扇風機が置いてあった。『これは何ですか?』と尋ねると、においを送って被害者たちに田舎にいると思わせるためだと警官が説明してくれた。靴箱の中に、半分残っているクッキー1箱と、それとマテ茶のティーバッグが少し入っていた。ここで、食事が与えられていた。キャスター付きの大きなクローゼットの後ろに、その“刑務所”への入り口があった。中には小さなナイトテーブルがあり、薬が大量に置いてあった。ベッドの上には鎖があった。道具やペンキなどが保管されているただの地下室に見えるこの場所で、女性が監禁されていたのだ。以前、アルキメデスから、数年前から経営している“ロス・ナランホス”のテイクアウト用の食品を保管する冷凍倉庫が必要だから、この大きな地下室を建てていると聞いたことがあったんだ。そこには上等のワインが400本ぐらいあったと思う」
「それから、警察で大量の紙にサインをさせられた。ほかの被害者だと思われる人物のリストを見せてもらったとき、数箱のタバコの空き箱があり、これらが何らかのメッセージのような気がした。それから、3色のペンで線が引いてあるゲリラ戦と人権についての記事が載っている雑誌も見た。「Nunca Más」という本が、誘拐のやり方について説明してある「誘拐マニュアル」のようなものと一緒に置いてあった。父親が所有していた4つのパスポートと一枚の偽の書類も見た。警官がやって来て『この男を知っていますか?』と尋ねた。プッチオの顔だったが、カードには偽名でロッカとなっていた」
プッチオ家の通り向かいにあるキオスクは、アレハンドロがいつも恋人のためにスナックやチョコレートを買っていた店だ。この店のオーナーが事件を振り返って語った。「プッチオには変わった習慣があった。家の前の歩道を昼夜問わずほうきで毎回30分ぐらい掃いていた。時々、私が店を閉める午前2時ごろに、彼が歩道を掃いているのを見た。通りを渡ってこちら側を掃いていたこともあった。そのとき彼は『ご近所同士、仲良く助け合いましょう。みんなで力を合わせてサン・イシドロの街をきれいにしようではありませんか』と言ったんだ。私の家の街灯柱にペンキを塗ってくれたこともあった。『重ね塗りが必要だ』と言ってね。」
多くの人々がこのニュースに混乱した。一家の誰にも知られずに、36日間もどうやって女性を地下に閉じ込めておけるのか。多くの隣人に目撃されながら、店舗が建つ通り沿い(現在閉店しているホビー・ウィンドのとなり)から見知らぬ人物が出入りできるのか。プッチオ家の人々に気付かれることなく、その人物が地下へ降りることは可能なのか?多くの人々が疑問に思っている。とりわけ、アルキメデス・プッチオの書斎に入ったことがあるアレハンドロの友人たちは、理解に苦しんでいるのだ。彼らは書類や本でいっぱいのその広い部屋の机の上に、小さな貼り紙があったのを覚えている。そこには“見返りを求めずに、正しいことをせよ”と書かれていた。





地下室。ごく普通の家の真下には恐怖の空間があった。釘で打ち付けられた12段の階段は、空のビンやさまざまな道具が乱雑に置かれた部屋へと続いている。キャスターつきのクローゼットが“独房”への入り口だ。換気システムのない約3平方メートルの部屋。四方の壁は新聞紙で覆われ、トイレ代わりに金属製の洗面器が置かれている。誘拐犯たちによる数々の創意工夫。誘拐した被害者に郊外にいると思わせるため、監禁部屋の外に大量の干し草を積み上げている。扇風機が唯一の換気装置。トイレは厚板の上に置かれた金属製の洗面器。定期的に掃除されることはなく、息ができないほどの悪臭が漂っていた。

女性実業家ネリダ・ボリーニ・デ・プラドがベッドの上で鎖に繋がれ、1か月以上にわたり監禁されていた部屋。
天井はテントのようなもので覆われ、彼女が部屋のレイアウトを正確に把握できないようにしていた。プッチオ家により誘拐被害者たちの監禁部屋が作られた地下階の通気口を指し示すサン・イシドロ地元住民。一家は2台のトラックを所有していた。そのうち、現在警察に保管されている1台は、誘拐するために使っていたと思われる。

マルティン・イ・オマール通り544。サン・イシドロ中心街にプッチオ家は住んでいた。一角には彼らが経営するマリンスポーツショップがある。その隣にある自宅へと続く鉄製の門扉。中に入り、地下へ降りると、今や“プッチオ刑務所”と呼ばれる場所があった。現在、捜査官たちは、ほかの誘拐被害者がいないか調査中だ。